フランスのファッション(1960-1990年代)
1966年に、イヴ・サン=ローランはプレタポルテのブランド「リヴ・ゴーシュ」を立ち上げることで、確立されたオートクチュールの規範と縁を切り、フランスのファッションを大量生産とマーケティングの領域へと拡大した(「サンディカ」の構成員はミシンの使用すら禁じられていた)。パコ・ラバンヌ(フランス語版)とピエール・カルダンがさらに革新を推し進めた。「リヴ・ゴーシュ」創設以降、オートクチュールの単なる代用品ではない贅沢なプレタポルテというものも存在するようになり、ごく限られた数の顧客のために仕事をするオートクチュールは純粋芸術という身分と、宝飾品や香水の販促手段という身分との間で揺れている。
1960年代には、人と違おうとする意志よりも画一性の方が目につくようになり、ゲオルク・ジンメル(1904)流儀のファッション社会学者の解釈の指標ともなった。ハイファッションは(イエイエ族(フランス語版)を含む)フランスの若者文化の批判に晒されるようになり、若者はロンドンやカジュアルなスタイルの方を向くようになった。1967年以降、フランスではジーンズが圧倒的に広まった。ジーンズは程なく世界中の若い男女のユニフォームとなっていった。矛盾したことに、それが「政治社会的に疑わしい」「ブルジョワ的な」服飾産業を拒否して個性とリラックスを要求するやり方となっていた[8]。1980年代には、再び差別化が求められるようになる――後にテレビ向け美術評論家となるエクトル・オバルク(フランス語版)(別名エリック・ウォルター)、アラン・ソラル(フランス語版)、アレクサンドル・パシュ(フランス語版)が互いに競合するファッション運動を(ユーモアを交えて)「ご両親たちに」解説して見せて成功を収めた。「ミネ・ポップ」(Minets pops)、「ヒッピー」、「BCGC」(Bon Chic Bon Genre)、「ババ・クール」(baba cools)、「パンク」、「ニュー・ウェイヴ」、「ピラート」(pirates)など。彼らは1964年から1984年にかけての衣服と文化のさまざまなファッションのユニークなアンソロジーを作り上げた。(一式のイラスト入りで)それぞれのファッションを記述するだけでなく、父兄の世代に確立された規範とそれらの起源との関係をも示していた。1960年代の「プチブル的な」順応主義から1970年代の「ヒッピー」もしくは新左翼的な反順応主義への移行、反順応主義の「ババ」からニヒリズムの「パンク」、それから人工的なカルトである「ニュー・ウェイヴ」へ。
マーケティングと大量生産に一層の焦点を合わせ、1970-80年代にはソニア・リキエル、ティエリー・ミュグレー、クロード・モンタナ(英語版)、ジャン=ポール・ゴルチエ、クリスチャン・ラクロワ(フランス語版)などが新しいトレンドを確立した。1990年代には多くのフランスのメゾンによるLVMHのような巨大な多国籍の奢侈産業コングロマリットが形成された。
0コメント