フランスのファッションの歴史(18世紀)

産業化以前のファッションも外観に無関心ではなかったが、社会階層を演出することを役割としていた。現代における御仕着せの拒絶とは対照的に、慣習は各人に衣服だけではなく社会的な地位も割り当てていたのである。20世紀に至るまで、総裁政府時代を除くと女性の衣服は総じてあまり変化しなかったが、宮廷人たちの服飾はその華麗さで目を引くものであった。高級なフランスのレースは一大産業となり、大貴族は浪費の危険を冒してでも持って生まれた財産を見せびらすために身に纏っていた。貴族階級の精神の自由さが身体の放蕩さの強調によって現されていた時代もあった。

フランスでは、14世紀に宮廷の衣服に関する慣習が地方に広がり始めた。後のパリのオートクチュールはこの流れを受け継いだものである。しかしながら貴族は特権によって赤いハイヒール(宮廷人は赤いハイヒールを履くことになっていた)の着用を含むあらゆる実際の干渉を免れていた。1670年代には(特にジャン・ドノー・ド・ヴィゼにより)ファッションを宮廷外に伝える出版物が出現し、フランス革命の少し以前頃には図解入りのファッション年鑑がパリのファッションを地方やヨーロッパ各地の読者たちに伝え、ファッションの「季節」やスタイルの変化といった概念を一般化していった[4]。同様の現象は少し遅れてイギリスにも現れた。こうしてファッション雑誌が出現し、衣服解放の仲介者となった。

サン・キュロットによって、衣服は政治的な意味合いを持つようになった。縞模様とパンタロンはアンシャン・レジームの服飾コードを覆した。王党派側では、テルミドールのクーデターの頃の伊達者(ミュスカダン(フランス語版))や総裁政府下のアンコヤブルとメルヴェイユーズ(フランス語版)が後のダンディ、都市民の先触れとなった。しかしながら重点は明らかに貴族的な選良への所属を表すことにあった――風変わりである権利そのものが特権なのである。