フランスのレース(17世紀)
1620年頃、フレーズの長い歴史が終了した[2][3]。1630年代の市民の間では、男性のシャツに手を半ば隠すほどの幅広いレースのカフスをつけ、大きく折り返したブーツの上にもレースを重ねた。肩帯や、手袋・ふくらはぎ・靴のフリンジにも金レースを、キュロットの縫い目にも金レースをつけた。ニードルレースの非常な高価な豪華なレースをつけるのはほとんど男性であった。一方女性は、1630年から1650年の間、あまりレースをつけなかった。特に、既婚女性はほとんど白のシンプルな布で作られたレースの縁取りの衿またはバーサ衿(両肩に垂れかかるレースの衿)とお揃いのカフスなどがの唯一の装飾であった。子供たちは大人と同じようにレースを身に付け、7歳までは男女の服は区別なかった。
イタリアではヴニーズ・プラが生産され、1650年代にはバロック様式の影響を受けてグロ・ポワン・ド・ヴニーズが登場し、大流行した(ヴェネツィアンレース)。それまでのレースとは程遠く、形体の肉付け、遠近法、りズミカルな力強さ、動的な楽しさ、重厚さを特徴としていた。1654年に即位したルイ14世は、グロ・ポワン・ド・ヴニーズの2つの長方形からなる折り返った衿を流行させた。揃いのカフス、ラングラーヴ(ズボンの裾を隠す小さなスカート)、カノン(両膝につける小さな輪状の飾り)などを身に付け、股を開いて歩かなければならなかった。グロ・ポワン・ド・ヴニーズを身に付けずには、誰も王宮に入れなかった。宮廷の女性たちはグロ・ポワン・ド・ヴニーズを、肩の周りのバーサや頭のストールとして身に付け、端折り上げたスカートからペティコートを見せた。家具にもグロ・ポワン・ド・ヴニーズを使った。1667年の王室の家具目録によれば、王がヴェルサイユの大運河を散策に使用する小船のアルコーヴのカーテンは、グロ・ポワン・ド・ヴニーズであった[3]。
これらのレースはヴェネツィアでしか手に入らず、輸入額は莫大なものだった。ルイ14世の通商大蔵大臣コルベールは禁止令を何度も発令した。しかし何度発令されようと、レースを身に付けるものは後を絶たなかった[2][3]。
一方、17世紀前半のフランス国内産業はフランドルやイタリアに比べ遅れていた。フランスのレース産業は麻文化の行き渡っていた北部全域、特にカレー、リール、スダン、アラス、ノルマンディーなどでボビンレース、ニードルレース産業がおこっていたが、はっきりとしたスタイルを持たず、地理的にも分散し、通商上もうまく構成されていなかった。パリの北側のオワーズ地方では、絹の黒いレースや金銀のレースが生産され、リヨンでは金銀のレースが生産されたが、必ずしも本物ではなかった[3]。
このような中、コルベールは、自国通貨の国外流出を防ぐために、奢侈商品産業をフランス国内に導入することに努め、1665年8月5日に王立レース製作所設置と補助金の交付を宣言し、クノワ、スダン、シャトー=ティエリ、ルーダン、アランソン、オーリヤックなどの都市に王立製作所を設置した。フランス王立製作所は当初は、グロ・ポワン・ド・ヴニーズの模造品の作成に注力した。ヴェネツィアから30人、フランドル地方から200人ほどの熟練女工たちを招くことを提案したが、実際には数を揃えることはできなかった。ヴェネツィアの元老院は出国禁止令を出し、外国に出たものが帰国すると裏切り者として、死刑の罰が待っていると警告した。これに対しコルベールは、在ヴェネツィア・フランス大使のポンジー枢機卿を通じてヴェネツィアの情報提供者からレース製作所の情報を得て、レースの生産高、価格、生産販売の仕組みを詳細に把握した。
その成果あって、1660年から1670年ころの、フランスのニードルレースは、ヴェネツィアのレースと同じ糸や技法が用いられており、区別することは難しい。唯一の違いは、ヴェネツィアの触覚的な美的感覚であり、あっさりしたフランス趣味と異なることと、ヴェネツィアの装飾が常に横に長く配置されるのに対して、フランスでは縦に長く配置され、柄が中心線の両側に当分に配置するフランス古典主義の名残が見られることである[3]。
コルベールの構想は、ヴェネツィアンレースをフランスで作成するだけにとどまらず、ポワン・ド・フランスを作成することであった。画家や王のデザイナーを投入し、王立製作所で用いるデザインはパリから来るものに限り、レース製作を独占した。装飾デザイナーが最初に考え出した装飾の大きな襞飾りのレースは、アランソン、アルジャンタン、スダンのいずれかで作成された。女工や商人はレースを模倣することが出来ず、製品も仲介なしに販売することができないため、製作所に対して反逆し、アランソンでは暴動を引き起こし、不正行為が横行した。警察権の及ばない修道院では、レースを製造し販売し続けた。
1670年代、ポワン・ド・フランスは価値を認められた。ルイ14世は1666年6月の1ヶ月間に、王立製作所から18491リーヴルのポワン・ド・フランスを買ったと言われている。1670年頃から1690年頃、ポワン・ド・フランスの大きなフリル飾りは、ルイ14世の画家でゴブランと王立家具製作所の所長であったシャルル・ルブランの影響をうけた。シャルル・ルブランの年俸は11200リーヴルであった。当時最も有名な高級家具師アンドレ・シャルル・ブールの家具はおよそ8000リーヴル、シャルル・ボーブラン(英語版)が描いたマリー・テレーズ王妃の肖像画は750リーヴルであった。この時期のポワン・ド・フランスの幅広い壁飾りは質が高く非常に個性的で、この時代のフランス趣味、すなわち厳密な意味でのエレガンスを示している。
17世紀末、1685年のナント勅令廃止によりフランスの産業は大打撃をうけ、一方、ヴェネツィアやフランドル地方では、ピエス・ラポルテの技法によるレースが広まったことにより、ヴェネツィアやフランドル地方がフランスより有利な立場に立った。ピエス・ラポルテの技法はフランスでは禁止されていたが、それは部分部分で作られるため、丈夫でなく品質が劣っているという由であった。実際には、フランスでは16世紀から多量のボビンレース作成していたが、ニードルレースを追求して高めた信頼を裏切らずに、フランドル地方のレース工と競うことは出来なかった。北部のノルマンディーでは、ボビンレースが作成され続け、禁止されていたにもかかわらずピエス・ラポルテレースが作られていた。ヴェネツィアやフランドル地方ではポワン・ド・フランスを模倣し始めたが、この点でフランスに追いつくことは出来なかった。
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