フランスのレース(18世紀)
18世紀前半にはレースの需要が大変に高く、どんな種類のレースであっても好んで用いられた。1720年から1760年頃、全ヨーロッパで生活水準が上昇し、最下層の人々以外のあらゆる市民が、奉公人や田舎の人であってもレースを身に付けるのが普通であった。ほとんどの人がフランドル地方のレースを身に付ける中、フランスのニードルレースは特権的なレースという地位を保っていた。ニードルレースの生産量はボビンレースに比べると少なく、また財政援助の中止により、多くの王立製作所は消滅したが、アランソンとアルジャンタンは王立製作所の本部であったという威光で経済的に独立し、その地の数万人の人々に糧をもたらしていた。1745年、アランソンレース、アルジャンタンレースという表現が用いられている。18世紀は各地のレースが特徴を強めた時代であったが、技法は容易に模倣され、流行したレースはいたるところで作成された。レースの名前が必ずしも産地を保証するものではなかったが、技術的、様式的に非常に高い品質のものは、原産地以外ではほとんど作成されなかった。
ノルマンディー地方の他の小都市とは区別して、当時の財産目録ではディエップ、ル・アーブル、フェカン、オンフルールのレースが尊重されている。北部では、スダンでニードルレースが作られた以外は、全地域でボビンレースが作られた。ヴァランシエンヌは1678年にフランス領となったが、フランドル地方のレースをしのぐのは1840年以降である。 ル・ピュイ=アン=ヴレ周辺の地方は19世紀末までレースを量的に作っていたが、特色のないレースであった。ルーアン、カーンではボビンレースを多量に作っていたが、話題になることはなかった。
0コメント